坂本レゾナンスの想い

坂本です。私自身、昨今の価値観が大きく変わり始めた時代に生き、現在のITの社会に対する役割について深く考えさせられております。
今まで細分化されて来た様々な事柄同士がネットワークを通じて全世界が繋がり情報が共有されました。ほぼ常に世界と繋がり同じ情報を共有し、新しい価値観に触る事で、物質的な価値から人の価値へ。また、組織から個々の価値へとダイナミックなシフトが加速する二極化の中に生きている様に思います。
そうした中で私は、何を見据えて事業を進めて参るのかと自分に問い続け、見えてきた目的は、人がその人らしく活き活きと生きる事。でした。企業やモノが成り立つ所には人が必ずおります。人材ではなく人財。その人財がより本来の本質を発揮出来たら、商品は、サービスは、企業は、そして人はどうなるでしょうか。そこにそっと日本の思いやりの心を持って寄り添い続けるITサービスを提供したい。そう、思うのです。

坂本 賢吾

1978年3月19日長野県諏訪郡生まれ。富士見南中学校・岡谷南高校卒業後上京。ギタリストとしてMUSE音楽院で音楽理論を学びながら、音楽事務所PS COMPANYなどに所属。その後フードファイター泉拓人として国内・アジア・アメリカへ。引退後の2011年震災を経て、帰郷し製造業立ち上げに加わり入社。システムソフトを組み上げ2014年独立。2017年3月法人化。
2019年4月 出家。高野山真言宗中院流の僧侶となる。

坂本賢吾のプロフィール

人生を変えた大きな出来事

私が生まれたのは長野の諏訪地方の片田舎。小さな頃から知らないものに飛び込んでみたいと思う探求心が人一倍強かったと思います。小、中学校と生徒会会長に推薦されましたが、型にはめられるのが嫌で自由にやらせてもらい責任は会長へ。などとずる賢く副会長ならと引き受け、選挙を経て生徒会副会長を務めながら、サッカー部部長も務めておりました。
そんな中、14歳で後の人生を変える出来事が二つ起きました。一つは、音楽との出会いです。少し忘れていた知らない世界に飛び込みたい好奇心が目覚め楽器を始めました。それと二つ目は、母の入院です。中学から帰ると母がいません。すぐに親戚が来て母が入院した。と知らされました。その時はすぐに退院して普通の日常が待っている。とあまり気にしていませんでした。

母の死を受け止めて

そして進学校の岡谷南高等学校へと進学した一年の夏、初の文化祭で初のステージを迎えるその前日に、母は白血病で他界しました。今でも覚えています。母が入院して数ヶ月後、血液のガンでいつ他界してもおかしくない状況を聴き、中学、高校から帰った夕方、自室の窓から庭の木と空が見えるのですが、その窓辺に座り窓を見つめながら、近々来る母の死を迎える心の準備をしていました。
その為か分かりませんが、あの、母が他界した文化祭前日の夏の日。泣きませんでした。泣けませんでした。そんなに悲しくない。そう思い込ませていたように思います。むしろ、自分のこれからの生き方を見てほしい。と、翌日の文化祭に参加しました。お母さんに聴かせてあげて。と私をBoy(少年)と呼んでいた社会の先生が文化祭の演奏を録音していてくれました。有り難かった。しかし、ちゃんとお礼を言えたのかどうなのか。。

東京での生活から地元へ

それ以来、自分の中で何かが変わり孤立する様になりました。そして東京で本格的に音楽活動をするべく音楽に没頭しました。きっと母の死の悲しみから逃れるために必死だったのだと今は思います。高校卒業し計画通りに東京に出た私は、音楽活動を始めて数年後には音楽事務所にも所属しデビューに向けて活動していましたが、母の死の悲しみから逃れる事が根っこの音楽では、音楽で人に何かを与える事は難しいのでしょう。それを超えてまで音楽が好きで音楽で何か成し得たいという目的も曖昧だったのでしょう。音楽の人生に幕を下ろしました。その後、特技の大食いでテレビに出て楽しくは思っていたのですが、情熱が続かず、やめようと決めました。今思えば、ただ、ただ、自分の存在理由を探して、有名になることが全てだと足掻いているようでした。

そして次の年、2011年3月11日。東北大震災が起きました。ここで大きく価値観が変わりました。私の世界が変わりました。当時結婚していたこともあり、この先、子供を授かるなら田舎で育てたいと妻の言葉が腑に落ちて8月に人生の半分弱を生きた東京から長野に帰省しました。ここでようやく職を探そうと思ったその日に、同じ地方にいる義理の兄から、帰ってきたなら、独立するから手伝ってくれないか?と電話がありました。よく分からないまま、はい。と答えた自分がいます。そして、この義兄の会社で今私の会社の基となるシステム、プログラミングと出会ったのです。

義兄の会社を手伝いながら学びの日々

義兄の会社は製造業でした。当然私は加工など出来ませんが、まずは二人で注文を外注し利益を得る商社でした。そこで手配や経理一切を任されました。社会人デビューです。まず、経理に必要だと、簿記という言葉と出会いました。
簿記が出来る事の幅や高さも分からず、雲がかっている山頂を眺めて、いつ戻るか分からない山の外周を歩いているようでした。しかし、登る。という静かな決意は覚えています。口コミの良い参考書を買い夜仕事が終わってから猛勉強しました。土日もずっと勉強していました。理解することの喜びを感じていました。約2ヶ月後の11月に試験がありました。簿記3級という合格率が50%程度の一番初歩ですが、満点で合格でした。義兄に連絡したときの嬉しさは忘れません。
次に訪れたのは会社の成長です。今までは工場を持たず、加工屋に手配をしていましたが、注文数が増えてきた事を受け、人を入れ、工場を持ちました。ここまで来ると簿記3級は通用しません。材料や人件費を扱う簿記2級が視野に入って来ました。やる必要はない事も知っていましたが、眠っていた知らない世界に飛び込みたい心が出てきてチャレンジを選びました。直近の試験は3ヶ月後。難易度も一気に上がりました。また仕事終わりの勉強漬けが始まりました。遊びに行っても参考書片手に。父も大手製造の管理の経験があり簿記を持っていて、今回は無理だろうと言っていましたし、私も少し弱気でしたが、試験を迎え92点。合格です。知ることの喜びを感じていました。

プログラミングとの出会い

そうして会社の成長と共に私自身も成長させて貰い、なんとか仕事をこなしていましたが、いよいよ、表計算ソフトでは追いつかない量の注文になってきました。どうすれば良いんだろうと考えていた時に、いよいよ”データーベース”という言葉に出会いました。定年を迎えている父が元の職場の人を連れてきてくれて説明してくれたのです。その時はまるで分からず一度は別の方法を探しました。しかし、何故かこの片田舎に、実家から数十メートルの家に、アメリカでプログラムを勉強していた人がセミリタイアで引っ越してきていたのです。迷わず訪問しました。「プログラムを教えて下さい。」と。同じ地区と言うこともあってか、快く快諾してくれました。さぁ、また勉強漬けの生活です。

システムが完成したときの喜びと感動

厳しくも優しいその人は仕事終わりに自宅に来てくれて、深夜遅くまでプログラミングを勉強しました。そうして第一号の生産販売管理システムが完成しました。ワンクリックでほぼ全ての業務がこなせ、コピー&ペーストをしていた表計算ソフトでは考えられない威力を発揮してくれ悶々とした業務から開放を与えてくれました。使い続けていくうちに会社に納品に来た業者がそれを見て、うちも欲しい。と言ってくれたのでこの感動と開放を味わって欲しいと思い引き受けました。製作にあたり打合せの場で初めてのお客さんとのやりとり。理想を聴き、可能な方法を考え応える自分。そして互いにゴールが見えることで更に意見を交わし、当初は予想もしなかった様なシステムが出来上がりにお互いに感動すると同時に人生で初めて自分の作ったものが人の役に立つ感動を覚えました。

心の中に生まれた“独立したい”という気持ち

そんな事を何件か経験しながら数年が経ち、ある深夜、会社で仕事をしていた時に私自身の人生を考えている自分がいました。仕事が嫌なのではなく、今の私はどうなんだろう。本当にこの仕事をしている人生で良いのだろうかと。当時も今も、私は私生活も仕事も境界がありません。生きている限り常に仕事をやっていたいです。そうだとすると私の人生はこれでいいのか。と。そう思い始めた数ヶ月後に、妻が第二子を授かったとスマートフォンにエコー写真が送られてきました。その瞬間、頭の中というより全身に青空が広がった事を覚えています。次の瞬間には、社長である義兄の元へ行き、独立させて下さい。とお願いする自分がいました。もっとお客さんと理想を語り合って響き合って職場に感動を届けたい。そして自分もずっと感動していたい。その思いに溢れていました。

様々な職場に感動と解放を届け続ける

義兄は今までの私の人生を知っている様子で、「分かりました。いつかはそう言うと思っていたよ。今までの仕事で出せる部分はアウトソーシングするので、これからもよろしくお願いします。」と、承諾してくれました。そして坂本レゾナンスが始まったのです。活き活きとした自分で、色んな職場に感動と開放を届け、それによって生まれる余裕で、それぞれが活き活きと自分を生きながら仕事をする中で会社が大きく発展していく。そんな未来を実現させて参ります。

出会いへの感謝。そして、未来を共に。

最後に、とても大事なことなので今の私について触れさせてください。弊社のロゴは白、赤、黒3つの丸から成り、様々な意味を持たせています。その中でも中心に来る一つが「調和」です。
あなたは、「調和」と聴いてどのようなイメージを持ちますか?
私は今、禅をしてお経を唱える毎日を送っています(禅はどこかプログラミングの世界と繋がっていると感じ驚いています)。なにかに属しているわけではありません。ただ、自分の深いところで求めていると感じたのでそのまま自己流で進んでみました。私の言葉で言うと「自分と繋がりたい。」という気持ちだけです。そうした中で、何よりもまずは自分なんだ。と強く思うようになりました。当然、素晴らしい商品を製作し続ける事が何よりなのですが、それよりも少しだけ前に自分がどんな人間であるかが常に問われていると感じています。それは誰かが望む誰かの理想の自分にどれだけ成れているか、演じられているか。ではなく、自分勝手や我儘などでもありません。今までを振り返るとどちらの自分もいました。私にとって調和とは、互いを認め合って自分がより自分らしくしっかり立っている状態です。そう理解しました。それを自分の軸にして少しずつ歩みを変え始めました。相手を認めて、相手との違いも認めて自分らしく生きる。そう調和して生きる事がより私らしいと思ったからです。これを社を象徴するロゴの一部としました。
出会いも含め、出来事とは自分で選んだ生き方にそれを選んだ自分に対して必要なことがただ起き続けるものだと思います。何を選択しても、選択肢がある時点でそれは何を選んでも価値は同じだと思います。しかし、その先に起こる出来事は受け取り方次第で大きく価値が変わり、その出来事に人生にどんな意味のある価値を見出せるのかが、何よりも大事だと考えます。そうしていると、これからの私と会社に起きる出来事にとても期待とワクワクを感じると同時に、自然と感謝の気持ちが生まれてきます。今までとこれから。そして”今”。その全ての出来事にありがとうございます。